見えにくくなった古民家の本質

最近、新築や改修の依頼を受け、多くの間取りや家の造りに対して考えることがある。
その家庭における構成やライフスタイルによって大きく異なり、ある程度の流行りはあるものの、
各住宅において求められるものは多様化しているといえる。

現代では家を継承することは少なくなり、クラッシュ&ビルドを繰り返し、
その世代にあった間取りや造りが具現化されている。
その中で一番人気がないと思われるのは、昭和中期の作りである。
高度経済成長の最中、やれ建てれと社会の風潮が促した結果といえる。
先輩方の話を伺うと、あの当時は一人前と呼ばれるまでの腕前や経験がなくても仕事がきていたと、
当時を振り返る。

私自身若い世代なので、当時は知り得ないが、改修の時に家を解体することで、
当時の空気に触れることはできた。
そこに敬意や思い入れと言うものがない家が多い。
いや、想いがなからこそ敬意は薄れていたのかもしれない。

昔の民家は代々継承され、その家族の歴史ともいえる暮らし向きが窺えた。
今では「民家」という言葉は使われず、「住宅」と言うように様変わりした。

元々、「民家」とは農家の人々のような年貢を納める「基層」と呼ばれる人々の住む家としての呼称であった。
半農郷士の家ですら民家の区分に入っていたと言われる。
少しだけ差別的な意味合いも含まれていたようだ。
人の暮らしを紡ぎ、脈々と受け継がれてきた文化などは今消滅の危機に瀕している。

世間で騒がれている「古民家」は観光資源としてや、商用ベースとしての見世物となっているように感じる。
それ自体は保存の手助けになったり、古民家の良さの周知に役立っているものの、
肝心の部分を知らずに扱うがゆえに、古民家の持つ真実は見えづらくなっている。

古民家でフォーカスされているのは建築学・技術的な部分やエコ(自然素材)で
あるという部分がほとんどである。それは大切なことだが古民家の真実は、
その民家の成り立ちや、今に至るまでの経緯に秘められているもだ。

単体としての「家」としてだけでなく、佇む地域やその裏に潜む歴史や文化・民俗的な部分に
もっと目を向けるべきである。なぜ普通の民家がここまで文化財登録されたり、
注目を浴びたのかというその本質にまで至ってもらいたい。

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成人式という通過儀礼

今年も新春の風物詩とも言える「成人式」が終わった。
私の住む北九州市ではその派手さから全国的に色眼鏡で見られているのが毎年の流れだ。

そこで通過儀礼について少し考えてみた。

成人式の昔は武家階級や上流階級で云うならば元服であり、基層で云うならば若衆入りであった。
各共同体で差異はあったが、13〜15歳で若衆組へ加えられた。
中には力試しや刺青などの身体的苦痛を伴う儀式等も行われていたが、
今では蛮行と位置付けられほとんどないと言える。
その多くは青年と呼ばれ、その後25歳程度での脱退までに成熟を終え、大人と呼ばれるようになる。

若衆の表向きは共同労働慣行となっていたが、実際は現役兵力の確保と言われている。
その後明治後期から敗戦までは、官製団体への移行。徴兵検査が通過儀礼とされてきた。
戦後、今の成人式の制度となり現在に至っている。

では、成人式という通過儀礼を済ますと大人なのだろうか?
毎年のように各地で報道される人はどうなのだろうか?
決して問題行為を起こす子たちだけではない。
どれだけ通過儀礼を経て自分が大人になったということを認識しているのだろうか?

そもそも大人の定義という部分が難しい。
成熟していて、物事の分別がつくなどと言われているが、
私的には1人で生きていく手段や技能、考えを兼ね備えているということが
大人だと思っている。

現代では「ピーターパン症候群」や「パラサイト中年」などと
揶揄する言葉が多く生まれた。
大人なのだが、大人になりきれていないという。

こういった現象は生きていくための技能や考えを現代社会のサービスに
頼り切っているという現実が生み出したように思える。

福祉の充実による恩恵は確かに素晴らしい。私だって世話になっているが、
そんな日々に怖くなったりもする。全てを社会のシステムに依存することは、
自分の生きていく能力を磨く機会が減り、退化しているのではないかと感じる。
「お一人様」を生み出したのもサービスの恩恵だ。

福祉などのサービスはビジネスであり、費用対効果という相関性の上に成り立っている、
人付き合いが基本となる義理人情や思いやりというものが欠落していくような感覚に襲われる。

確かに生業としての仕事は生きていくために必要であるが、
少し前まではその人間関の延長に生業はあった。
しかし、いまではネット社会となり、顔を合わせたり、煩わしい付き合いを省いたサービスが
主流となっている。
その分、煩わしさは減ったものの、クレーマーという人の闇を引き出してしまったのではないだろうか?

地域密着で仕事をしていると、どうしても普段の付き合いというものが仕事にもついて回る。
煩わしい部分もあるが、そんなこんなを考慮しながら周りのみんなと共に生きているという実感はある。
困ったときはお互い様で助け合う。力になる、なってもらう。
そんな相互社会で生きていけると言うのが成熟した大人ではないかと思う。

とはいっても誰しも未熟な部分はある。
それをカバーし合える地域であり家族や友人が側にいること、
そしてその関係を良好に継続していくことが「大人」ではないだろうか。

先述は私の考えであって、人それぞれで考え方は違うだろう。

答えは自分の中にある。
そんな社会の一員としての自分を見つめ直す「成人儀礼」であってほしい。

「歩留まり」と「木取り」


今回は、「歩留まり」と「木取り」について書こうと思います。(古民家ブログより転載)

「樹木」は伐採され、乾燥した後に「製材」されます。
製材されると「木材」となります。
1本の丸太より色々な用途で使われる基本の形へと加工するのです。

それには、ただ加工すればいいのでなく深い考えがあります。
まず、10m〜以上の丸太であれば運ぶ事が困難となります。
現在の建築材として使用されている規格は4mです。

家を建てる場合でもほとんどの家が4mの材を組み合わせて作られています。
田舎に行くと今でも規格にこだわらない家がありますが、
街ではそういった長尺ものを運搬・流通させるには問題が多く無理な事が多いのです。
その為に製材をする前に一定の長さに切断されます。

それを「玉切り」といい、樹種や等級・用途によって変わりますが、
私の知る限りでは4mが基本となっています。
玉切りをする場合に、根本に近いほうが経が太いため高価とされます。
根本から「余尺」をとり、「元玉」「2番玉」「3番玉」…と続きます。

そして、製材へと掛けていくわけですがなるべく1本の丸太から効率よく材を
取り出さないとロスになるので、よく考えてから製材をしないといけません。
効率よく材を取ることを「歩留まり」といいます。
歩留まりを良くするには、木を見て中の「木理」がどうなっているかを予測しないといけません。

※木理=年輪や髄線・節などによって現れる木目模様の事(そのうち詳しく説明します)

必要な材と取れる材のバランスを考えて寸法や場所を決めます。
ここで、みんなが思いそうなのは柱が4本いるから、その1本で全部とって残りは
板かなんかにすればいい…何て思いそうですが実際にはそうはいきません。

※背割

柱1つとっても、中心の芯から柱をとると「芯持ち材」となり、強度はあるが「背割」をしないと割れが起こります。

※芯持ち材

逆に芯を持たない「芯去り材」は芯持ちに比べると強度は落ちるものの、割れにくくなります。

※芯去り材

そして、化粧の柱にしたいなら節はない方がいい、「柾目」を見せたい「杢目」を見せたいなど、意匠により変わってきます。

※柾目

そういった肌目や強度を使用用途に応じて「木取り」を行なっていきます。

<※杢目

そして、いざ製材をかけるときに「鋸(ノコ)の刃幅」(歯振り=あさり)を考慮しなくてはなりません。
それを「挽き歩」と言い、鋸を入れる数だけその分のロスが出ます。
大きな材をとるときはいいですが、薄い板をとる時はかなりの数の鋸を入れないとならないので
その分を見越した「木取り」が必要となります。

そして、「木取り」を行い製材した材を仕上げて建材として世に出ていきます。
意外と施工している大工さんでも知らないことがあります。

私自身、大工であり専門職ではありません。
知っている範囲内の解説になりましたが、もし訂正等ありましたら
お気軽にご指導いただけたらと思います。

どうしても私の様な人間が書くと硬くなりがちなので
分かりづらい文章で申し訳ありません。

でも、1人でも多くの方にこういった専門職の方の技術や努力・苦労が
あることを知っていただけると「木材」に対する接し方も変わってくのでは?なんて考えてます。

弟子の時に師匠に言われた言葉ですが…
「木材に敬意をもって加工しろ!お前より年上なんぞ!!
失敗しましたで済むか!!」

人でもモノでも敬意を払うって大切ですね。

そういった「気付き」のきっかけになればと思います。

 

陣山半途坂の由来(八幡郷土史)

今日は趣向を変えて、福岡県北九州市八幡西区陣山にまつわるお話。
他地域の方には何の興味も示さないお話だが、お付き合い頂きたい。

まず、郷土史という物自体が各地域から消えゆく環境にあることを念頭において読んで頂きたい。
実際に地元の人間で無ければ到底お話について行くことは無理であることを分かった上で
今日は書き綴ることにする。
とは言っても郷土史からの転載になる。

今となっては非売品であり、営利目的ではなく綴られたこの民俗誌に著作権があるのかは定かではないが
失わせるには惜しいと思い転載させて頂く。

問題があるようであるならば削除要請等応じるつもりだ。
しかし、多くの人に知って貰いたい想いで造られた民俗誌に
こういった現代のメディアを通じ少しでも多く現代の方に知って頂けることは
私的に本望だと思いシェアさせて頂く。
参考民俗誌ですら私の生まれる前に発刊されたものであるため
多少の現代に分かるように形を変えるものとする。

前置きが長くなったが書かして頂く。

【陣山半途坂の由来】
今は無き、西鉄陣山電停と桃園電停間(路面チンチン電車)が今でも坂になっているが、
昔は大変急な坂でもっと、もっと長い坂だったそうな。
私たち子どもの頃でも両脇は、大きな松の木が茂っていて、昼間でも暗くて怖かった。

この坂を何故、半途坂と言うようになったかについて、面白いお話がある。

昔々、徳川時代のもっと昔、博多の人が何か用事で小倉に行く為に博多をたったそうな。
そして、この半途坂にかかり、あまりに長くて、疲れたので一軒の家に立ち寄り
「博多からここらまで何里※1ありますか?」と、
ところが、尋ねられた人は、博多から小倉まで何里かと勘違いして
「十三里」と答えたそうな。
博多の人はこんなに歩いて来たのに十三里もあれば、
到底この坂は越えられない、と博多に引き返したそうな。
それからこの坂を半途坂と言うようになったそうな。

著者:河野キツエ

地元の人にしか分からないお話だというのは重々承知の上で書かして頂いている。
半分私自身の備忘録として書いてる事の方が趣旨としては合っているのであろう。

しかし、いつか八幡の地を訪れた時にこの話を知っていると
またこの上ない感動や気付きが生まれる。
そういったエピソードや歴史を知ると人は意外にも心に入りやすい一面がある。
私とて同じ感覚でいつもめぐっている。

これは八幡の地に限らずどの地域であっても言えることである。
失われていく歴史を紡ぐ為にはこういった世に出て脚光を浴びるだけの
書籍でなく、想いで作り上げられた郷土史誌こそ価値のあるものだと私は思っている。

古臭くて結構、その中にある本質にもっとフォーカスして頂きたいと願い書くこととした。
それが新たな分野において起爆剤になる事を願う。

※1:一里=4km

代々語り継いだ昔、記録を残す現代

あなたは祖父・祖母、もしくは父・母から語り継がれた話があるだろうか?

私は福岡の片田舎で生まれ育ち、今も変わらずこの場所に根をおろしている
私の本家は大分県の野津町(現臼杵市)の山の中である

実はまだ数回しか訪れたことはない
祖父の時代の繋がりで今は関係が薄れつつある
福岡では本家だが、大分からすれば分家である

昔子ども心に家系図なるものを見せてもらって心弾んだものだが、真実とは誰もわからない

私は祖父の生前にそういった話をあまりする機会がなかった
父親が受け継いでいるのであろうが
この歳になってしばしばそういった話をするようになった

今になって子どもの時に疑問に思っていたことが、話を聞くことによって
ひとつひとつの出来事が紐解かれていく

しかし、受け取り方は父親との多少のズレはあるだろう
立場が違えば少なからず、自分の感情が入ってしまうのが人間である

そこで一家の歴史を脈々と受け継がれた結果、曖昧な部分が発生したのであろうと考える
世代交代に加えて社会の変革により価値観が変化したことが所以だろう

そうすることによって人によっての解釈の違いや感受性により
本当の意味での「真実」が長い年月によって変化した結果であると考える

所詮私個人の見解にすぎないが、間違いとも言い難いと勝手に思っている

今現代を見渡すとどうだろう?
書籍の質の向上、記録媒体の高品質化、ネット社会やソーシャルメディア・クラウドなどの普及に
確かな歴史が刻まれている毎日である。

ソーシャルメディアの普及により国家レベルが個人レベルまで下がっているのは確かである
例え誰とも繋がらず、一人孤独にブログに生き様を書き記していたとしたら?

その人がいなくなった時には記録だけがウェブ上に残っていることになる
この先そういった幽霊アカウントはどういった道をたどるのかはわからない
しかし、人はどんなに孤独な毎日であったとしても、人一人の一生を抱えていたのだ
その証が残るといういうのが現代である

自然に考えれば、これは喜ばしくもあり人の技術の結晶であると考えられる
今現代は正確にかつ事細かに記録されていく社会なのである

私のように郷土史や風俗史を研究する者にとっては夢の話である

しかし…そのことをふと冷静に考えた時に
歴史を探求する、想いを馳せるというロマンは消え去っているのでは?
ということに気付く

履歴や過去ログを辿れば真実ははっきりと見えてくる
知りたいことが知れた時、人は胸のつっかえがとれた想いでスッキリするのであろう

私が思うに人の好奇心や探求心・欲求は「わからないから」発生する感情だ

今流行の「都市伝説」にせよ、真実が不確かであるからこそ話題を呼び、
それについての研究や探求を行ないたいという欲求を引き起こすのだ

人は事柄に自分の希望や欲望を重ね、真実を歪めてでもその欲求を満たしたいと思う生き物ではないのだろうか?
その結果、不確かな事柄に心奪われ興味を示すからこそ探求心は生まれ、
心を満たすためにその事柄の奥深くまで入り込んで行くのであろう

そして、私だけが知っているという優越感や自己顕示欲に支配されることで
その心に拍車が掛っていくものではないだろうか?

ということは、この先100年先にそういった歴史ロマンを感じて、
心奪われ研究・探求していくという行為自体がなくなるのではないだろうか?

それは今以前の歴史以外に言えることであるが、
それは今で分からないことはこの先もっと分からなくなっていくのはわかりえた事実である

それよりも今を生きる生き字引と言われる諸先輩方にほど遠くない実体験の歴史を
今の最先端技術で残していくことが急務だと考える

ただし、これは今の感覚で捉えた言い分である

私個人的に家族や地域の年長者を敬い、もっと接する機会を持ち
歴史を口頭で紡いで来た文化を大切にして、その行為自体を誇れる人の繋がりと考え、
この先も脈々と受け継いでいって欲しいと切に願う

それが日本文化を守り、受け継ぐ子どもが日本人としての矜持を持ち
郷土愛に包まれ、本来あるべき姿の日本人を育成していくきっかけであると考える

世代を超え、代々語り継ぎ、文化を決して風化させない取り組みが求められている気がしてならない

「数山家住宅」を巡る

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2度めのアタックとなった福岡県田川郡添田町津野に佇む「数山家住宅」を訪れた。
前回は思いつきで当てもなく車を走らせたおかげで辿り着くことなく已む得ず帰宅。
実際道中、携帯等の電波の届かない場所にあるだけに、下調べや協力なくしては辿り着くには
少し困難と言える場所であった。

「数山家住宅」は田川郡添田町南東部の英彦山付近を源流とする流路延長31.63kmの
二級河川「今川」の源流に程近い場所に位置しており、その下流には油木ダムがあり、
北九州京築地方の水がめの役割を担っている。

「今川」は赤村の中心部で流れを北東に変え、京都郡みやこ町に入ると
平成筑豊鉄道田川線と福岡県道34号行橋添田線の間を流れる。
行橋市に入ると川の下流となり行橋市市街地を流れ、河口付近で江尻川と合流して
周防灘(瀬戸内海)に注ぐ。 福岡県内5番目に長い川である。

付近をゆるりと眺めながら行き着くまでの道中を眺めたが、
水という豊富な資源に恵まれ、背後には日本有数の修験場として名を馳せる霊峰・英彦山があり、
531年に開基とされている歴史深い英彦山神宮の旧参道筋(津野口)の
最後の集落で「猿喰集落」となればその当時は大いに栄えたことが想像される。
英彦山神宮自体は今も尚、信仰の山として多くの人々に崇められていて、平日でもそれなりの人出がある場所である。
しかしインフラ整備の発達した今では、集落にその当時の面影を感じるには程遠い。

今回は添田町役場の梶谷敏博さんの協力を得て、辿り着くことができた。
その集落に着くと電波状況は良好でかなりの数の民家が存在し団地まである地域だった。

お目当ての古民家の下には管理をしている子孫の方々が住まわれいて、管理をしてくれているようだ。
その場所に近づき、最初に見えてきたのは右から二間分ほど雨漏りの補修としてブルーシートが掛けられているのが
目に飛び込んできた。
まずは着いて最初に玄関先に立ち眺める。
玄関庇には竹を半割にした物を交互に組み合わせ、屋根と樋を一体にしている感じよく機能的な意匠だ。
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全体的には茅葺き自体の手入れも行き届いてなく、哀愁が漂う感じだった。
それは、街中で見かける放置された古民家に近い印象だったが、今現代において致し方のないことなのかもしれない。
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昔は集落上げての相互扶助(頼母子・結)というシステムがあり、
茅を葺き替えるのに負担が少なかったからだ。

今は添田町の所有になっているが、過疎化や限界集落化が進む自治体では古民家自体を守っていくのに
金銭的にも人出的にも苦しい部分があるのは日本全国共通の悩みであろう。

古民家を目の前にはやる気持ちを抑え、外部からゆっくりと見て回る。
茅の表面は痛み、雑草が生え散らかしていたが軒の竹と丸太はシッカリしていた。

平成2年に屋根の全面補修を行ったようだ。それでも23年の月日は流れている。
茅の差し替え等は行なっていないのであろう。普段よりの屋根の草むしりもだ。
何より昔のように中で火を焚き、屋根の茅を燻すという行為が現代の文化財では難しいのである。
茅を燻すことによって炭化させ防虫や腐朽菌対策となっていたからだ。
実際に20年〜からであそこまでなるのは手入れの問題であると思う。

私が八女の現存・現住の茅葺き民家を訪れた時に家主は草むしりが大変だということをこぼしていた。
その言葉が物語るように、いかに普段よりの手入れや営繕が重要かを思い知る事ができる。
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ただし、現状で致し方がないという事も理解している。
日本全国共通で個人で管理・維持ができなくて自治体に寄贈する流れは当たり前であり、
解体される事なく現存していてくれているだけで感動できる。

そして中に入った時に感嘆の声をあげる。
多額のお金を掛けるわけでなく必要最小限の修繕や補修を繰り返していたが故に、
ほぼ当時の面影や雰囲気を残した形で佇んでいたのだ。

最近見て回る古民家は多額の予算を組み、古民家の持つ風合いや雰囲気を消す再生をしている
ことがほとんどである。
それは私たちの様に古民家や歴史・郷土を研究するものにとってありがたいことではあるのだが、
何故かそういった古民家を訪れた時に心弾まない自分がいることも否定出来ない。

「数山家住宅」は生活感こそ住んでいないから生まれないが、その雰囲気を良く残している方だと感じた。
ここで家屋の細かい説明を入れたい。
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家屋種類:平屋・直屋造り・間口十間半(18.9m)
屋根:茅葺き・寄棟
建築年数:天保13年(1842)に建てられたことが座敷押入れの敷居の墨書から明らかになっている。
補修履歴:昭和55年保存修理工事・平成2年屋根改修工事

間口が十間半という広さから江戸時代にはかなりの上層だったことが伺える。
南向きに建てられており、東より五間半が床上部、
西より六間が土間という比較的土間の広い造りであった。
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近代化が進むにつれて土間は縮小の一途をたどったが
それと相反するように広く取られた土間が印象的だった。
天井は正角に加工され、一間おきに梁が掛けられ、大和天井で仕上げられていた。
最奥部のちょっとした座敷は竹を裂き平たくしたシャギ竹天井であった。
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床は囲炉裏のある部屋以外は畳だったが、
囲炉裏のある部屋は根太に竹が使用されその上に直接薄い藁床が敷いてあった。
なかなか見ない古い納まりである。
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全体的に建築年数や時代を考える少し古い感じがした。
多くの1600〜から古民家を見てきたがそれに近い感じがしたのが率直な感想だ。
その時代の年配の大工が建てたのでは?なんという根拠のない想像が巡る。

家屋は地域の気候・風習・大工の癖によってかなり左右される。
同じ大工が建てた家は親戚等と言われている。
同じ地域で古民家調査をしているとデジャヴ(既視感)に襲われることが多々ある。
その時に家主さんに聞いた所で確証はないが私の中で勝手にそう思っている。
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私自身墨付けする時は私の癖があるように、昔はそれが
間取りにまで及んでいたと考えるのが普通であろう。

広い土間には当時の農具がその状態のまま置かれており(展示ではない?)
その当時の暮し向きを感じるには充分だと思った。
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何より入った途端に肌寒く感じるぐらいに涼しかった。
夏を快適に過ごす為の工夫を身にしみて分かる瞬間である。
昔は冬は火を焚きその寒さを凌いでいたのであろう。
今では電化製品の恩恵に依存している私たち現代人には耐えうるものではないかもしれない。
しかし人は生きてきた。
ある程度時代の流れと共に温暖化等が進む中、今までどおりとは行かなくとも
その暮らしぶりに学ぶ部分は多くあるように感じた。

私自身、古民家かぶれだマニアだオタクだの言われることもしばしばあるが
それは最高の褒め言葉として受け取っておこう。

ただ私は常に現代と共に生きているわけで
その現実から逃避した覚えはない。
いつでも真剣に現代社会や現代建築に向き合っている。
だからこそ疑問や理想等の思想は生まれるのだと思う。
それを私は古民家という庶民の文化遺産に重ねて見ているだけだ。
それに気付きほんの少し視点を変えることで見えてくる。

私たち日本人が忘れかけている「心」を取り戻すキッカケになればと
いつも考え、こうして声を上げ続ける。

今回の訪問はその想いを強く思わせる力を持った古民家であったと思う。

ぜひ訪ねてみませんか?
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蝉のかたち

先週を最後に蝉の声が消えた。

何故かしら蝉の脱皮に良く出くわすのだが、何度見てもその過程は美しい。
ほんの少しづつ形を成し、色づいていく様に心奪われる。

蝉は1ヶ月程度で孵化し、地中へと潜る。
その後1〜5年(種類によって異なる)幼虫期を過ごし、その後お日様の下へと飛び立つ。
その後は1ヶ月程度で土へと還る。

よく本などで目にする話ではあるが、この特異な寿命が蝉の生涯を現しており、
長く形を成している「幼虫」こそが、本来の姿がであり、
「成虫」は死装束をまとった異形・臨終の姿であると言われている。

最後に残された本能的な行為は生殖であり、その義務を果たした時、生涯を終える。

陽の当たる時間は生涯のほんの一瞬であるからこそ、
その「死装束」は儚くも美しいのではないだろうか。

職業の貴賤

最近ふと思うのだが、事務方と技術者の貴賤は未だに残るなと…
明治初期以前の家職崩壊をキッカケに、一次産業〜二次産業〜と
(その点は機会あれば触れるが)

時代が近代化するにつれて、それは顕著に見られるように思う。
それはどの職業にも共通する部分はあるだろうが、
技術者は評価されなくても、技術そのものは大切にされていた、
されているというお話。

今では当たり前の常識となりつつある、家屋を建てる大工さん。
言い方悪く、とある断面だけの話かも知れないが、
建築士や設計士が多く特別視され、それを具現化する職人に日の当たることは少ない。
テレビの「和風総本家」などで取り上げられるのは、
かなり特化してしまった技術者に限られている気がする。

普段の民家再生に携わる大工さんの技術なんて誰も見向きはしない。
新築の大半には悪いが、よほど昔ながらの建て方でないかぎり、
その対象にはなりえないという現実がある。
昔は家1軒建てれれば一人前と言われていたが、
現代のプレカット・簡易建材を用いての新築はまた別分野と認識している。

仮に、そのような新築ばかりを手掛ける大工に、
古民家再生のような現代工法と違う家屋をスケルトン再生させろと言っても、
どこから手をつけたいいか分からないのが現実だ。

私だって、昔の諸先輩方の技術には及ばない。
それはその技量を発揮するステージなど皆無であるからだ。
それはある意味自分の営業力のなさを露呈するようなものであるが、
社会的風潮は無視できない、いや、逆らえない部分の方が多い。

こういった職業の貴賤は明治初期からの歴史に通じる。
さらには戦後の高度経済成長がそれに拍車を掛けたのは言うまでもない。
昔の家職や流派は「人」ではなく「技術」を残すことに尽力をした歴史がある。

大工であれば、ひっそりと屋根裏や床下に銘を残した。
今では残すどころか、その事実すらなかったことになりつつある。

4〜5年前の話であるが、私が棟上げの加勢人として呼ばれた現場で、
上棟を経て、屋根仕舞いを終えて降りてきた時に、
「お疲れ様でした」の一言を掛けることもなく無視していた施主に
驚愕だった覚えがある。

私たち加勢人であればまあ、分からなくもないが、
棟梁にねぎらいの一言も感謝の言葉も掛けない現実に驚いた。

「あれはないですよね?」

と棟梁に声を掛けても、

「あんなもんよ」

で終わらせる棟梁に納得がいかなかった。

その後、施主は営業と設計士と歓談を終え、何食わぬ顔でその場を後にした。
やるせいない気持ちのまま現場を後にした覚えがある。

昔良く師匠の言っていた、

「よ〜してくれらぁ、釘2本のところ5本打とうもん」

という言葉が回顧する。

そんな人としての感情というか気持ちの問題を超えた今の社会の仕組みに
残念な気持ちにしかならない。
誤解してほしくないのは、建築士や監理士を悪く言うことではない。

しかし、やはり表舞台に立ち脚光を浴びるのはそういう人であることが多い。
まあ、表舞台に立ちたがらない職人は多いけど。

なんとなく上から目線で話されると悔しくてならない。

といいつつ、生活を抱える私たち職人にとっては、
作り笑いをするのが精一杯だ。

技術者を蔑ろにすることによって技術の伝承は滞る。
そういった状況を危惧し、国も「大工塾」などという素晴らしい仕組みを作っても、
10年ぐらいで潰れてしまうのは、
社会やお客のリテラシーというか認識が変わらないかぎり、
その技術は衰退の一途を辿るのは間違いない。

私の理念であるけれど、
職に取り組む「人」は平等である。
仕事は取ってくる人が偉いとされているが、
する人、こなせる人がいて成立する。
お互い様である。そこを勘違いする建築会社に未来はないと思う。
私だって、仲間であり、下請けであり、材料屋であってしても、
日々感謝を忘れない。

建築なり、仕事は1人ではない。
みんなで協働で創り上げるものなんだ。

そこに貴賤の意識はないはず。

今の時代だからこそ、声を大にして言いたい。

古い町並みにおもうこと

長崎街道木屋瀬宿をゆっくりと歩いて見た。
いつも何気なく目に入る風景ではあるが、注意を凝らすと、色々なモノが見えてくる。

先日、戸畑の商店街のアーケードのなかの改修をする機会があったが、
その舞台裏に分かってはいたものの、恐ろしくなった。

昭和アーケードには、防火という意識は薄い。表はある程度見栄えが良くても裏に入ると、
そこは増築に改修を積み重ねたカオスな空間となっている。

一度火が着けば、止めどなく延焼するであろう。しかも避難経路というものも考えられていない。
狭く急勾配な階段が一つだけ設えてあるだけだ。
露出した電気の線、剥がれ落ちかけている鎧貼の板、
至る所に設置された木のバルコニーなど…

現代では不燃建材の普及やスプリンクラーなど設備に恵まれてはいるし、
消防法の整備もある。おまけに消防車などの有事に対応する環境である。
しかし、昭和の建物は法規制を免れたグレー建築であるが故に、有事の際には大惨事へと繋がる。

消防車が入って行くのも困難な場所である事が多い。通りに対する間口が狭く、
ウナギの寝床と言われる奥に深い建築である事も要因に挙げられる。

そこで宿場町を見てみると、防火に対する意識と考え方が大きく違うことに気付く。
昔から宿場町は幾度となく大火に見舞われ、その都度その姿を失ってきた。
その都度、長い時間を掛け、その姿を変えてきた。

長崎街道筑前六宿で見るならば、その現存する建物は明治以降の建築である事が殆どだ。
長崎街道は古くは400年の歴史がある。しかしその当時の建物などほぼ残っていない。江戸末期でさえもだ。

無論、宿場町に茅で葺くなどご法度である。しかし、瓦が流通する前は、草葺か板葺であった。
江戸末期から明治にかけ、一般に瓦が普及すると共にその姿が変わってきたのである。
江戸末期から主流となったのは居蔵造で、田舎の百姓家なんかに良く見られる造だ。

宿場町で見られる居蔵造は京町屋の厨子二階に似ている。
木屋瀬宿は、厨子二階ほど二階桁天は低くない。二階であっても充分な天井高が確保されている。
その点京町屋では軒先に行けば立つ事出来ないぐらい低い。個人的には京町屋の方が好きだ。

防火の為に、外壁に漆喰を塗りこみ、銅板巻を多用している。加えて卯建(うだつ)も確認できた。
うだつは本来防火壁として造られたものだが、江戸中期辺りより
その家の財力を示す飾りのような意味が強くなった。良く漆喰で鏝絵を描いたりしている。
慣用句のうだつの上がらないの語源である。

逆に昭和遺産のアーケード街の裏側の写真はないが、身の毛もよだつ光景である。
住民の命を守る為の区画整理であったり、整備である事も知っておく必要もある。

かと言って、歴史的文化財の建築を惜しみなく崩してしまうのも忍びない。
そして、今日訪れた折尾、堀川沿いの街並みを同じ事が言える。
昔ながらの町家と昭和の建物が混在している。

再開発、区画整理が行われる予定ではあるが、
何とか1番いい筋道が立てられないか?と思わずにいられない。

今日は高橋酒店さんにお伺いしたが、
絶対に立退かないと息を巻いてらっしゃる一言一句に想いが滲み出ていた。
色々な代々つたわる戦時中かや炭鉱・高度経済成長期と多くの歴史とエピソードがあり、
いつまでも聞いていたい内容だった。

そして閉店の9時を回り、店を後にした。

自分の知っている、見ている視点と違う視点や考え方にも目を向けなければ、
最善の道は見えてこないだろう。

たんこもん(炭鉱者)のこえ

今となっては北九州市である「香月」
その昔、香月荘〜遠賀郡と変化したが、平安時代より石炭が採掘されていた地域である。

私立大辻小学校(大辻炭鉱設立、現在の香月小学校)の史料を漁っていると、
全国的に見ても異質とされる川筋者の歴史が見えてくる。

多くの史料に囲まれ、目を通していると、当時の人々の「声」が聞こえてくるようだった。

”筑豊には男くさい侠気がある。それが「うめき」に
聞こえることがある。
幾代も続いた動きの中で、この明日をも知れぬ自分たちの生き方に
つい「うめき」に似たものがでるのではなかろうか。
そしてそれが切った張ったの荒っぽい所作となり、男気と侠気につながって行くのかも知れない。
「どてら婆さん」ではないが、筑豊の女にも、そのようなものがうかがえる。
すべて一途に、すべて真心一つにと…
たしかに筑豊の気風には、男女の「うめき」、地の底の「うめき」が
あるのかもしれない。
昔、聞いた話に、こういうのがあった。
Aは働き者であった。Aのお父さんも、お祖父さんも
炭鉱者(たんこんもん)であった。
Aは働きに働いて、二十三になった。
そしてあるところの女が好きになった。
その子は花柳街(いろまち)の女であった。
彼はこの女に通いつめた。自分の青春を、
全部捧げ尽くしたような思いつめかたであった。その女もそうであった。
Aに召集令状が来た。Aは、いさぎよく戦地に行くつもりであった。
そしてその女に、最後の別れを告げにきた。
その夜、その女は、Aに抱かれたあと、Aの寝顔を見ながら、そこにダイナマイトをつめて、Aを抱きしめながら爆死した。
筑豊とはそういうところななのだろうか。
何か今でも、その女とAの「うめき」声が聞こえてくるようである。

(生方四郎 記)
出典:「うめき」〜断層〜より11392976_890378377708518_972464366649280468_n

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